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20歳の元日に、世界が静かに崩れた — 鬱とのはじまり

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20歳の元日。
家族がそろうはずの食卓で、父から「離婚する」と告げられた。
母の姿はそこになく、空気だけがひどく冷たかった。

その瞬間、世界が音を失った。
この文章は、あの日から始まった私の心の記録です。

元日の朝、父の言葉で時間が止まった

20歳になって初めて迎えた元日。
外は雪がちらつくほど冷たく、朝の光が差し込む食卓に、父と私と弟だけが座っていた。

「母さんとは、離婚することにした。」

静かに告げられたその言葉を理解するまでに、少し時間がかかった。
母はその場にいなかった。
まるで、すでに過去の人になってしまったように。

私は昔から「いい子」でいようとしていた。
家庭の空気が悪くても、笑顔でつなぎ止めようとした。
父にも母にも「大丈夫だよ」と言いながら、心の中では必死だった。

けれど、あの日。
努力でつないできた糸が、静かに切れた。
胸の奥で、何かが「ぽきっ」と折れる音がした。

食事がのどを通らなくなった日々

それからの毎日は、記憶が霞んでいる。
食べ物がのどを通らず、気づけば何も食べていない日が続いた。
夜になると涙が止まらなくなり、朝が来るのが怖くなった。

眠れないまま迎える朝。
カーテンを開けることもできず、
世界の音が遠くで鳴っているように感じた。

大学の春休み中の出来事だったのが、せめてもの救いだった。
休学はしなかったけれど、通うことも人と話すことも、苦しかった。
体重は64キロから52キロまで減り、鏡の中の自分が誰だか分からなくなった。

生きているはずなのに、
生きている実感がなかった。

助けを求める勇気

「このままではだめだ」と思えたのは、ゼミの教授にすすめられて心療内科へ行ったときだった。
待合室には、私と同じように疲れた顔の人たちがいた。
それを見て、少しだけほっとしたのを覚えている。

診断は「鬱病」。
薬を飲み始めて、ようやく少し眠れるようになった。

けれど、薬の副作用で体重は52キロから75キロへ。
そこから何年ものあいだ、体重は波のように増減をくりかえした。

64 → 52 → 75 → 58 → 85 → 65 → 95 → 80 → 90

心が揺れるたび、体も揺れた。
「心と体はつながっている」
その言葉の意味を、痛いほど感じた十年だった。

支えと、回復への道

治療と並行して、支えてくれた人たちがいた。
無理に励まさず、ただ「大丈夫?」と静かに声をかけてくれた友人。
その優しさが、どれほど救いになったか。

「がんばれ」という言葉が怖かった時期もあった。
けれど、言葉を失った私のそばにいてくれる人がいた。
それだけで、息をつなぎとめることができた。

病院の先生も、「無理に笑わなくていい」と言ってくれた。
その一言で、張りつめていた糸がふっと緩んだ。

そして気づいた。
気持ちを吐き出すこと、そして休むこと。
それが、回復へのいちばんの近道だった。
焦らず、少しずつ、息をするように心を戻していった。

そして今、ゆるやかに生きている

22歳で社会に出たとき、再び心が大きく揺れる出来事があった。
それはまた、次の記事で書こうと思う。

今も私は病院に通い、薬を飲んでいる。
でも、それを恥ずかしいとは思わない。
それも私の一部だから。

心は完全に「治る」ものではないかもしれない。
けれど、やさしく付き合うことはできる。

そう思えるようになった今、
ようやく少しだけ、過去の自分に「ありがとう」と言える気がする。

終わりに

もし、いま苦しんでいる誰かがいたら。
どうか、一人で抱えこまないでほしい。

助けを求めることは、弱さではなく、
生きる力の証。

そして、どうか休んでほしい。
立ち止まることは、あきらめることじゃない。
また歩き出すための、静かな準備期間だから。

ABOUT ME
秋山チャチャ|日々を1mmやさしくする人
秋山チャチャ|日々を1mmやさしくする人。山梨で暮らす何でも屋事務員です。コーヒーの香りとアロマに癒やされながら、「ゆるっと、でも自分らしく」過ごす日々を綴っています。忙しい毎日の中で、ちょっと肩の力を抜くきっかけになれたら──そんな思いで、習慣・片づけ・お金・カフェ時間を中心に発信中。好きなものは、カフェめぐり、香り、やさしい言葉。小さく動いて、暮らしを1mmあたためていけたら嬉しいです。